美術館が行うべき多種多様の鑑賞者を意識した展示(森美術館 カタストロフと美術のちから展より)
森美術館「カタストロフと美術のちから展」は、2019年10月6日から1月20日まで行われている企画展である。この企画展は負と正に転ずる「美術のちから」の可能性についてあらためて世に問い直すことを目的としたものである[注1]が、カタストロフ(=大惨事)を扱っているがゆえに、不特定多数の人を不快にさせ傷つける危うい鋭さを持った展覧会であるとも言えるのではないだろうか。本稿では、「このカタストロフと美術のちから展」を手掛かりに、美術館に関わる倫理や道徳の問題について、考えてみたい。
日本における直近の大惨事というと、2011年東日本大震災をイメージする人も多いだろう。この展覧会でもそれにまつわる作品が多数展示されているが、今回私は震災後の福島における原子力発電所をテーマとし展示されていた「ブラックカラータイマー」という作品を取り上げたい。この作品は、108個の電波時計に原子力発電所に従事した作業員の肖像が描かれているものであるが、そのキャプションには、作者ではない第三者、学芸員の解釈が記されていた。「時計の秒針が108本同時に奏でる「カチッカチッ」という音は、作業員の生の証である心音にも、また制限時間(=死)への秒読みのようにも聞こえます。」[注2]と。確かに、原子力発電所での作業は命に関わる危険性も秘めているという見方もできると言えるだろう。しかし私は、この解説の存在にまず一点反論したい。その表現の危うさについてである。「死への秒読み」というあまりにも直接的な表現は、多種多様な鑑賞者がそれに触れた時、不特定多数の人をを不快にさせたり傷つける可能性を十分に秘めていると言えるのではないだろうか。この問題を考えるために、まずスミソニアン博物館の研究者A. へンダーソン・A. L. ケプラー氏の論考を取り上げたい。二人によれば、「今日では、歴史的な真実に関して唯一で絶対的な一致はあり得ない。いくつもの歴史があるのだから、解釈の仕方も何通りもあることになる。」[注3]と主張している。私は、この二人の意見に賛同した上で、東日本大震災による原子力発電所の事故も一つの”歴史”となったものであると考える。そういう意味で、その歴史に対し、一つの学芸員の比較的暴力的とも言える解釈を示すべきではないのではないのだろうかと私は主張したい。また、学芸員個人がこのような解釈を行い示すことで、鑑賞者一人一人の解釈を妨げているともいえるのではないだろうか。
では、学芸員は鑑賞者に作品を見せるにあたってどのような立場、姿勢であるべきなのであろうか。この問題を考えるために、水戸芸術館現代美術センター学芸員の竹久侑氏の論考を取り上げたい。竹久氏は、「キューレーターの仕事のかなめは「考える場」を開くことであると思います。何かを主張する展覧会であれ、娯楽性の強いものであれ、キューレーションに大切なのは、複数の視点の交錯する場、ある思考を吟味できる場をつくることで、鑑賞者のひとりひとりが自らの視座や考えをいまいちど省察する機会を設けること」であると主張しているのである。[注4]この主張が示してくれているのは、学芸員が鑑賞者に自由に解釈を行なってもらおうとする美術館のあるべき姿勢の一つの正解であると私は考える。そのような立場に立った上で私は、安易に学芸員が限定された解釈、ましては人を傷つける可能性を持つ解釈をどんな人にも見られる状態で示すべきではないと主張したい。今回の展覧会では、センシティブな内容を扱っていることへの注意書きや配慮は無かったが、多様な鑑賞者のことを考えた時、それは必要に値するものであったと私は考える。
以上のことから、結論として、美術館は、多種多様な鑑賞者のことを配慮して行動するべきであり、展示の際には、美術の自由な表現を尊重しつつ、社会的な責任を負うことを念頭に置き、鑑賞者が自由な解釈を生み出せるような補助を行うようにすることが、ひとつのあるべき姿であり、また行動していくことが求められているのだと主張したい。
[注1]森美術館「カタストロフと美術のちから展」パンフレット (2018) より
[注2]森美術館「カタストロフと美術のちから展」
[注3]A.ヘンダーソン・A.Lケプラー編、松本英寿・小浜清子訳「スミソニアンは何を展示してきたか」玉川大学出版部、2003年、6頁~8頁
[注4]椹木野衣 他 著、フィルムアート編集部編「キューレーションの現在 アートが「世界」を問い直す」フィルムアート社、2015年、77頁